産後うつについて(夫の視点) ー経緯ー②
続き
こんにちはゴリラです。このページは産後うつについて夫に視点から経験を元に書いています。少しでも同じ状況で苦しんでいる人や悩んでいる人の救い、助け、参考になれば幸いです。
①もありますのでまずはそちらも読んでいただけると流れがわかります。
一時別居
衝撃的なことがあってから一時別居となりました。僕は自身の性格的な事もありますが常に落ち着かない日々が続きました。私の両親はわかっているようでわかっていなかったと思います。あの場面を見て、奥さんの日常的な苦しみを見ていたのは僕と奥さんだけ。わかるはずもありませんでした。逆に、変に解釈されたいた可能性もあると思います。その、子供が「可愛くない」「泣き声がだめ」「攻撃しようとする」外から見れば「何やってんの」「ちゃんとしなさい」そう思われていたかもしれません。僕は周りがそう思っているのでは無いかと思い誰にも相談できずにいました。「言っても無駄。誰もわかってはくれない。離婚しなよ」そんな言葉が頭の中で繰り返し巡っていました。段々と自分自身も苦しくなってきました。
奥さんの状況、ドライブ
救いは子供でした。何と言っても。そこだけが僕の心の拠り所でした。別居中とはいえやはり奥さんの様子は気になります。LINEは続けていましたがやはり文面だけでは伝わり切れませんし、どう思っているのかわかりません。そこで僕は夜、奥さんの様子を見に奥さんの実家へと行きました。
そこにいたのは死んだ目をしてEXILEのライブDVDを観ていた奥さんの姿でした。「元気になったのかな」と一瞬思いましたがそうではありませんでした。こちらの問いかけには答えません。何を言っても反応が無いのです。ようやく動いたときは、お義母さんの呼びかけによってでした。僕らは少しドライブに出かけました。
車内はとてつもない空気でした。奥さんの口からは「離婚」「死にたい」この二単語しか印象にありません。いや、実際はこれしか言っていなかったのかもしれません。当然のことながら正常な状態とは程遠かったです。僕達は1時間ほど車を走らせましたが、先の明るい話は出ませんでした。出たのは僕への攻撃と死への意識。暗いトンネルを永遠に走っているようなそんな感覚です。「本当に終わりは来るのだろうか。終わらせること(離婚・死)でしか抜け出せないんじゃないんだろうか」そんな風に思っていました。
この生活は3日ほど続いたと思います。平行線でした。変わったのは4日目です。奥さんが実家を飛び出しアパートに戻ったと聞いた時でした。きっかけは奥さんがお義母さんから「そろそろ戻ったら」と言われたことでした。お義母さんも娘の姿に違和感を感じていたと思います。ただ、前例がないのでどうしていいのかわからなかったんだと思います。
これは一番難しいところだと思います。”周りからの理解が得れないこと”こればかりは経験しないとわかりませんし、出産はお母さんであれば誰でも経験すること。そして普通に子育てができた場合、産後うつに対しては理解がすぐにはできないのだと思います。もっと世間にこのような状態があること、可能性があることを知ってもらいたいなと思いました。
「死」への衝動
奥さんがアパートに戻ったあとも僕と子供は一緒に暮らしませんでした。奥さんの状態がまだ回復していないと思い、また同じようなことがあれば僕自身耐えられる自信がありませんでした。案の定、奥さんの状態は回復しておらず非常に不安定な状態でした。これは後日見たのですがスマホの検索履歴は死についてのことばかりでした。
奥さんの様子が気になりアパートに様子を見に行くと鍵がかかっており、更にはチェーンまで掛けられていました。流石にそれでは入れません。何度もインターホンを鳴らしましたが反応はなく、ただ音が鳴るだけです。流石に心配になった僕は何度も呼びかけますが応答なし。良くない想像ばかりが頭に思い浮かんできます。警察を呼ぶべきなのか。倒れているのではないか。どうすることもできない、パニックで回らない頭を必死で働かせました。
すると1件だけLINEが。「帰って」と。
安堵したのもつかの間、僕の性格はしつこい性格なのでそこが良くも悪くもといった感じなのですが、今回もそのしつこい性格が出ました。何度もインターホンを鳴らしたりLINE電話をしたり。これでもかというくらい。その当時は必死でした。なにかあってからでは遅すぎると思っていました。その思いが通じたのかどうかはわかりません。が、家の鍵は開きました。
家は暗く重い空気が流れていました。見た目はいつもと変わりません。あの日出ていったときのままのはずです。ですが、暗くとにかく重たいのです。奥さんはベッドに横たわっていました僕がいくら話しかけても反応はありません。先程も書いたように僕はしつこい性格です。反応があるまで何度も話しかけ、体をゆすり、時には反応を待ってみたり。
「うるさい!!!」それが最初に口を開いたときの言葉でした。僕は衝撃を受けました。これが本当に自分の奥さんなのかと。産前の奥さんとはまるで違いました。別人です。「帰れよ!!!」こんな暴れ狂ったことは今までありませんでした。
僕はなんとか奥さんを落ち着かせようとハグをするような態勢になりました。しかし、それが逆効果でした。奥さんは大いに暴れ、僕の手を振り払おうとし、殴る蹴るでした。何度か喧嘩はありますが、ここまで激しいのは初めてです。暴れるに加えて叫ぶこともありました。「離せ!!」「やめろ!!」「私なんか消えちゃえばいいんだ!!」等常に叫んでいました。あまりの激しさに警察を呼ばれるんじゃないかと思ったほどです。数十分ほど暴れた後、なんとか落ち着かせることができました。というかおそらく僕は関係なく、勝手に落ち着いたといった感じです。
「死にたい」おそらくそれが奥さんの頭に常にあったものです。話をしていても端々にそのワードが出ていました。そして奥さんの手には一生残るであろう傷がたくさんついていました。
極端
僕が一番ビックリしたことは普通に見える瞬間も多くあったことです。最近だとアーティストの「こっちのけんと」さんも鬱と発表し、「跳ね返りと戦うため」と活動のセーブを宣言しましたがまさにそのような「跳ね返り」や「極端」でした。散々暴れたと思いきや妙に上機嫌なのです。そこには僕も大きな驚きがあり、より謎が深まっていきました。これはどういう状態なのか。と。
その夜、奥さんがお腹が空いたと言ったので二人で寿司を食べに行きました。当時の僕はこの状況が好転するなら何でもよいとそう思っていました。
ですが、また別の問題が発生します。今度は僕の両親側が「何を遊んでいるんだ」と始まったのです。確かに当時の僕は自分の事と「まずは奥さんの状態を」という気持ちでいっぱいだったので、きちんと説明できていなかったかもしれません。もしくはうまく伝えられていなかった。そこがよりプレッシャーに働きました。確かに子供を預け出てきましたが、「今のこの状況をわかってくれよ」と僕自身少し孤独を感じてしまいました。
希望
少し話ができるようになった奥さんの口から出た言葉があります。それは僕にとって少しの希望でした。それは、「子供と暮らした」でした。奥さんと子供は約2週間ほど離れている状況でした。たまに僕の実家へ顔を見に来ることはありましたが、それでも長居するわけではなくすぐに帰るという状況が続いていました。来てはいるけど子供への興味はなくなっていると僕は思っていました。
そんな中で出た奥さんの発言に僕自身少し諦めていた部分があったんじゃないかとハッとさせられました。それと同時にどこか安心した部分もありました。もう少しで1ヶ月検診というタイミングでした。
そこからの話し合いで僕らは1ヶ月検診を目途に同居を再開してみる。と決定しました。一か月検診は奥さんが行く気もあり二人で行こうと話していたのです。よく考えればそれも奥さんが「私がやらなきゃいけない」というプレッシャーを感じての行動だったかもしれません。ただ、僕は少しずつ前進しているのでは?と考えていました。
奥さんも当然つらかったと思います。楽しみにしていた子供が可愛くなくなる、育児がつらくなる、死を覚悟する。そんな状況を見ていた僕にとってもこの少し前向きな発言は「希望」へとつながりました。
検診
そうして迎えた検診の日。奥さんは不安でいっぱいだったと思います。
久しぶりの我が子との外出。その日は他の予定はなく検診のみでした。子供それでも奥さんにとっては大変な一日になることが予想できました。子供にとっても初めての外出です。
病院に着くなり、僕は奥さんに子供を任せ見送りました。検診はお母さんと子供両方の検診で、夫が入ることはできなかったので僕は外で待機していました。なので中の様子は奥さんからのLINEだけ。という状況でした。
僕にとってもつかの間ですが久々に一人の時間となりました。とは言え正直気が気ではなかったので読書をするのでも動画を見るのでもあまり集中できずそわそわしていました。
奥さんから入る情報では問題なく検診を行っている様子でした。僕が心配していたのは泣き声が聞けない。という状況にもあったため、泣いたらどうしよう。という懸念でした。しばらく離れていた奥さんは一人で対応できるのだろうかと。ですがそんな心配もよそにひとまず無事に終わりました。とてもホッとしたのを覚えています。
後で状況を聞くと、「あまり泣かなかった」とのことでした。そのおかげもあってか不安になることなく見ることができたと。その状況を聞いて息子にも感謝しました。奥さんにとってもこれは自信に繋がったと思います。
こうして無事一か月検診を終えることができました。ただ、気になったのは奥さんが現状を病院に伝えたところあまりパッとしない返答が返ってきたとのことでした。それは医療機関に相談してください。と。当時はなんでもっと支援というか、助けてくれないんだ。と思ったのを覚えています。
ただ、今思えばそれも当然だったのかなと思います。病院側からしてみてもそこまでのケアを想定していない。それは専門ではなく精神科の担当。等の考えもあったんだと今ではわかりますが当時は「なぜ助けてくれないのか」という思いがありました。
こうして無事検診が終わり帰りの道中、再び一緒に暮らそう。という話の最終の確認をしていました。その時奥さんは僕の実家側の反応を一番気にしていました。それが怖くて一歩踏み出せない状況といった感じです。僕は説得するのに必死でした。このタイミングを逃せば一生一緒に暮らせない気がしたのです。このままずるずるといってしまうんじゃないか。先が見えなくなる分不安は大きくなっていきました。長時間の話し合いの末、日程を決め、そこに向けて一緒に暮らすための準備をし、再び暮らし始めよう。となったのです。
こうして僕らの生活は再び始まりました。
この後の生活については③にて続けて書きたいと思います。長くなった文章をここまで読んでいただきありがとうございます。次は再び始まった共同生活がどうだったのかを書いていきます。